たばこと珈琲

感想文の練習など

オフィスマウンテン『ホールドミーおよしお』を観た

 オフィスマウンテンvol.3 2017年新作公演『ホールドミーおよしお』の、6月2日20時開演回を観てきました。

 自分のための、取り急ぎの感想メモになりますので、きちんとした作品分析などはありませんが、ご容赦願います。ネタバレにはなるかもしれません。

 

 

 観終わってはじめに浮かんだ感想は「おもしろかったな」だった。

 私が観ながら主に思った・考えたことは、三点にまとめられる。

 

 まず、役者の身体を眺めているだけでおもしろかった。私は後方の真ん中あたりに座っていて、舞台全体が一度に把握しやすく、かつ役者の被りも少なかったので、特に役者が5人、6人と舞台に出ているときは総体としての役者のポーズや動きがいくつかのフォーメーションのように見えて、ぼんやり眺めているだけで、「楽しいな」と認識できた。私はスペクタクル(役者の身体と舞台などで作り上げる一枚絵のような瞬間)のある演劇が好きであるし、本作でのそれが「奇妙」に見えること、表意的であるような、そうでないような体の動きによって作り上げられていることも、観劇経験がまだ浅いので新鮮に思われて、とても楽しく感じた。しかし、たとえあの光景が目新しくなくとも、目に楽しいものであるのは間違いないような、感覚の部分を揺さぶられたように思う。

 

 次に、役者が無理をしていることがおもしろかった。本作に登場する役者は、ほとんど常に、体のどこかしらを動かしている。それは、必要に迫られた、或いは自然な(たとえば、楽しいから笑う、誰かの気を引くために肩をたたく、などのような)動きではない。そのような動きをするとき、多くの人は意識の大部分を「身体を動かすこと」に持っていかれることになるはずだ。

 しかし彼らは、まるで意識と言葉が一致しているような声色で台詞を口に出す。演技するという行為において「台詞を口に出す」ことは、本来の生活の中で「言葉を話す」こととはわけがちがう。ロシアの演出家(不勉強で、名前が思い出せない)の実験的な稽古が証明したように、役者は役本人にはなれない。台本を読み込み、役者の置かれている状況などを理解することは、役者が舞台上でまるで役本人であるかのようにふるまうことを助けはするが、それでも役者は「まるで本当にそのように思っているかのような声を出す」ことからは逃れられない。つまり、演技において「台詞を口に出す」ことは、大げさにいえば「声帯の制御をする」ことであると、私は思う。

 声帯を制御しようとしたとき、もちろんそれはほかの身体の動きに左右される。(この辺の話について、今の私の考え方は鴻上尚史「発声と身体のレッスン」に、とても影響を受けているというか、悪く言えば鵜呑みにしているところがある)しかし『ホールドミーおよしお』において、台詞を口にした響きから、観客が読み取れる感情が喚起する身体の動きを、役者はしない。簡単に言うと、「変な動きしながら自然に聞こえるように台詞も口に出していて、役者すごく無理をしているな」と思ったということです。そうして、目の前で役者がそういう無理をしているさまを見るのが、同じ人間として、普段の生活では見ないもの、舞台の上でしか見られないものを見ているようでとても面白く感じた。役者同士の動きが干渉していく中で、目線などによって互いを意識していないかのようにふるまっているように見せている役者たちが、どうしても相手を意識していることがわかる瞬間なども、なにか役者が隠そうとしているものを覗き見したような快感があった。

 

 みっつめに、自分がどこか思考の着地点を探しながら観ていることが面白かった。上演が始まってしばらくの間、舞台に現れた役者がただ何も言わずに、しかも意味の分からない動きをしている。「ずっとこうなんだろうか」と心配になる。役者の一人が話し始めて、意味の分かるものが舞台に現れて、少しほっとする。役者がそれぞれ話し始めるが、その筋がつかめず、また不安になる。どうやらそれぞれの役者はそれぞれの連続したストーリーを持っているらしいことがわかって、また少しほっとする。そういうことを繰り返す自分を自覚させられて、これもとても面白く感じた。

 ひとつの連続性をもった物語を、時系列に沿って追いかけるだけが舞台作品ではないと知って・わかっていても、目の前の人間(或いは生き物?)の行動が、理解できないと感じると、私はひどく不安に感じる。そういった宙ぶらりんな状態にもっていかれる、また着地させられる、というのを、何度も繰り返される時間、それだけでは舞台芸術としての面白みに欠ける、と私は思うが、先述した身体そのものの面白さ、テキストにちりばめられた固有名詞やだじゃれ、どこか気が抜けていて、どこまでが実話なのだろうか、と考えさせられてしまうストーリーなどが、私たちの頭の理解できる部分に訴えかけて、独特の緊張を緩和させる。評価される劇作家、演出家には、観客の胸の内をハッとさせることが上手くて、バランス感覚が良い人が多いなと思う。

 また、どこを見ていいのかわからなくなる、というのもおもしろかった。役者が舞台の上で台詞を発すると、私たちはその役者を見るべきだ、と思う。しかし本作においては、前述したとおり役者は台詞の意味を助けるような動きをほとんどしない。テキストに、運動が従事していない。また、台詞を発している役者を見ることも、なにかちがうのではないか、という気さえしてくる。私の視線は戸惑いながら、台詞を発していない役者の身体に注目する。ある動きのパターンを繰り返している。台詞のなにかがひっかかって、ハッと台詞を発している役者を見る。確実に目を見られて、ドキリとする。観劇に行って、多くの場合に体験するのとは全く違ったものだった。ただ「お前も考えろ」と投げつけられるのでもなく、自然と思考と視線をひっかきまわされる、そういう意味で非常に長く濃い、大体70分間くらいだった。

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 観ることで、自分の中に引き起こされた反応をとても面白く感じた作品だった、というのが昨日言葉にできた率直な感想です。しかしながら、こんなふうに既存の枠組みとの比較でしか感想を言えないのがもったいないと思うような、もっと豊かなものがあの舞台の上にはあったような気がします。あと、大谷能生さんの音楽が、心地よさと不安定さをどちらもはらんでいて、単純にとてもかっこよかったです。何か書き漏らしている気がしますが、というかテキストへの感想がゼロなのですが、とりあえずのメモはこれで終わります。

 そんなことより、レポート書いて、研究テーマ探しを頑張りなさいよ。